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2003年 4月 2003/4/3 (木)■[感想]『宇宙のステルヴィア』 きのうあんなことを書いておいてしっかり観ちゃいました。内容をまったく知らなかったのですけど、何となく観てたら標準語のあいこっちにやられました。第1話は彼女が「まるでピーターパンみたいね」からのセリフだけで全部さらっていきました。カコイイ。王子様だ。 松岡さんは標準語でしゃべってたのに、脳内ではしっかり大阪弁になってます(^〜^;) イントネーションがかなり訛ってたせいもありますけど(そういう設定なのでしょうね。たぶん)。あのキャラの髪型もけっこうすごい。頭にパイナップル。 ■[感想]『戦闘妖精・雪風 解析マニュアル』 買ったまま放っておいたのですが、ようやくその内の小説作品「ぼくの、マシン」と「被書空間」を読みました。すごく久しぶりに神林長平を読んだという感じでした(「ラーゼフォン」もしばらく前に読んでるのですが(^〜^;))。 わたしが谷山浩子と神林長平の近いと感じているのは自分が現実だとか真実だとか思っているものがそうでないんじゃないかと示すような物語だったりとか、小説を読む(または歌を聴く)瞬間にその物語が綴られているような感覚が共通しているからでしょうか。 映像作品にあまり興味がなかったり期待値が低かったりして、これは映像、音声、物語の速度まで表現している映像作品が文章で表現する小説や音声で表現する歌とくらべて作品の世界を描きすぎているみたいな感じがあるからかと思います。ひと言で言えば「想像力を働かすことが出来ない」という、PTAだかで言われてそうなイメージのある表現になる気がするのですが。まあ、表現されている部分とされていない部分との兼ね合いで楽しんでいるのでしょうね。そこに「物語を語っている存在」というのも含まれるわけです。 映像作品にあまり興味がないというのは個人(作り手)対個人(受け手)でないから、という理由もあるような気はするのですが、そのあたりでは「ほしのこえ」みたいなものが出て来たのはおもしろいのでしょうね、――と思ってみたところで終わり(^〜^;) 2003/4/4 (金) 4月3日からの舞村さんの須藤真澄論、楽しみです。 2003/4/5 (土)乙一の「夏と花火と私の死体」についてあった話題(こちらやこちらやこちらやこちらを参照)について。 この作品は死体である9歳の女の子の「わたし」が語り役になっています。現実にはありえないけれど、物を考えるはずのないものが語っているのだというルールですね。でも、死体となった女の子の1人称であっても、この作品の語り手というのは本当は作中の登場人物よりも物語のもっと外側に存在しているのではないかと思います。――そしてそこまでがこの作品のルールになっているのではないでしょうか。その語り手というのは3人称小説的な、作者自身の立場に近い存在です。それが死んだ女の子の立場を借りて語っている。それがルールとして了解出来れば語り役の女の子の言葉が9歳のものと思えないことが問題にならないのではないかと思います。 「夏と花火と私の死体」の語り役は幽霊になっているわけでもない正真正銘の単なる死体です。この女の子が物語の内側で言葉を持つような理由は超常的なものも含めても示されていないわけですよね。だから彼女にこの物語が語れるはずはありません。現実ではそれが当たり前なわけですが、その当たり前のことを前提にした上でこの作品は成立しているのだと思います。そういう非現実な設定によって、語り手が実際には女の子そのものではないというルールをはっきりと示しているのでしょう。 乙一の作品について別のことを関連して書こうと思いつつ上の文章も書き始めたのですが、それについてはちゃんと作品を読み返してから書いたほうが良さそうなので保留。 2003/4/8 (火)R2onの須藤真澄論を読んでいるうちに、このあいだまとめてしまったばかりの単行本をまたまとめて出して来てしまいました……。「あゆみ」が出て以来、何度もこれをくり返しているような気が。 神話の神様は天から降りて来るかあるいは海からやって来るかだといいます。遠い昔から天にも海にもあの世があって人でないものが住んでいるところだったのですよね。「竹取物語」では不死の人が船で月からやって来るし、谷山由紀「天夢航海」(復刊リクエスト募集中……)の中でも天夢界からの」迎え」の船は空からやって来ると噂されています。 須藤真澄の作品も海(水辺)の向こうにあの世を見て、同じように空の向こうの月にもあの世を見ています。「シオマネキ」のように、宇宙という海の向こうに月というあの世があって、生きている人間ではないものがそこに住んでいる。「いざや、波」のように「海の底って空なんだね」と言う者がいる。そして海からの声を聞く者、月からの声を聞く者がいる……。 人類は長いあいだ地上に立って空を見上げていた。地球の重力に縛られながら、暗くて冷たい夜空をずっと見つめて来た。そして超えられない空の彼方に彼岸を見た。 須藤真澄の月が「あの世」なら、谷山浩子作品の月は何かというと「もうひとりの自分」あるいは「自分を操るもの」ですね。場合によってはこの「もうひとりの自分」がまた「自分を操るもの」でもあったりするのですが。 2003/4/9 (水)■きのうの続き。 では、谷山浩子作品で「あの世」はどういうものなのか、というと……わからないのですよね、これが(^〜^;) 本当にわからない。あれだけある谷山浩子の作品の中に死者の世界と触れたりするようなものが見つけられないのですよね。だから、とりあえず「わからない」としか書けない。 ――例外として「僕は帰る きっと帰る」(1999)が挙げられます。この作品の「僕」は臨死体験のような状況で「きっと帰るよ きみのところへ!」と言っているわけですが、ここで描かれているのはあの世的なものなのだろうと思います。でも、……これはどうなんでしょうね。あるいは、いままで描かれて来なかった作品がこれから作られて来るということなのかもしれない、と思ったりもしますがちょっとわかりません。この作品と同じアルバムに、生きている人間は誰も入れないし入ればもう出られない、というようにあの世的なものとの接点が歌われていると考えることの出来る「ドッペル玄関」という作品もあるわけですが(^〜^;) 須藤真澄作品には人間は間違った道を歩いて来た末の場所に立っているのだと登場人物が悲観的に感じているような作品が初期(1985〜1988くらい?)のものにありますが、谷山浩子の作品には、デビューアルバムのタイトル曲「ねこの森には帰れない」(1977)から最新アルバム「翼」でタイトルの元になっている「学びの雨」(2002)に至るまで、人間の歩いている道が取り返しのつかないような間違ったものだと感るようなものはありません。「風になれ 〜みどりのために〜」(1983)というタイトルの曲で「空をつかめ 水をくだけ 彼方に夢の世紀」と歌ってしまう谷山浩子にとって宇宙というのは現実から続いている道の先にあるもので、地球の大気という見えない鳥かごを抜けて人類がいつか飛んでいくところなのだと思います。そして人間はそういう未来に向かって歩いていくことが出来るはずのものなのでしょう。 須藤真澄はわかりませんが、谷山浩子のそのあたりの意識は世代的にあるものなんじゃないかな、という印象があります。鉄腕アトムとアポロ計画で育った世代ですね。人間が月へ行くのをリアルタイムで見た世代にとって月はもう人でないものが住む彼岸ではありえない。また世界の「つきる」ところにあるものでもなく、人類はその先にある宇宙まで行けるものなのだという感覚が強いのではないかという気がします。 2003/4/10 (木)■さらにきのうの続き。谷山浩子の歌に独特ともいえるような虚構性の強い作品は80年代になってから多く出て来るように思います。「時の少女」(1981)より前には、虚構性の強い作品は既存の物語から作られたものや谷山浩子自身の作詞でないものによって多数が占められていますし、完全にオリジナルといえる作品にはどちらかというと現実的なラブソングが多いです。「時の少女」が出来るまでに橋本一子と出会って自信を持つようになったというエピソードがありますが、物語の内容にもそれが現れているのだろう、とこのあたりは想像しています。 これは何となくなのですが、そんな谷山浩子の歌の傾向が2000年に入ったあたりで少し変わったような印象があります。一周終わって70年代に還ったかのように(30年周期説なのか……)フォークっぽい曲がいくつかあったり1998年に始まった幻想図書館という既存の物語をもとにしているステージがあったりもしますが(「透明なサーカス」や「お昼寝宮・お散歩宮」などのアルバムに収録されている歌を含んで作られた物語がオリジナルなだけでなく、資料による限りでは80年代から90年代のあいだは朗読を挟むようなタイプのコンサートにしてもほぼオリジナルの物語で行われていたようです……長いカッコだ)、何よりも「僕は鳥じゃない」(1999)や「学びの雨」のようなアルバムタイトルにも関連する曲の現実的で前向きなところが印象的です。 これはあまり形になって前に出て来なかったような作品が出て来るように変わったのであって、たぶん谷山浩子はもともと前向きなのでしょう。 谷山浩子は非現実を見て、後ろへ置き去りにされて来たものの声を聞きます。でも、そこで振り返ることはあっても前に進むことはやめない。――やめない、というより前に進むことしか出来ない、ということなのでしょう。後ろに向かって出来ることはたぶん「ROLLING DOWN」のように転がり落ちることだけ。だから前に進む。そして前に進むしかないのだから、進んでいく道は正しいものだと信じていて、正しいものにしないといけないと思っているのではないでしょうか。 あたしの好きな赤いきのこ なつかしい朝のそよ風 安田ママさんが3月31日の日記で「なんで結婚してから音楽聴かなくなったのかわかった。ひとりじゃないからだ。基本的に、音楽ってひとりで聴くものなんだね。」と書かれてるのですけど、少なくとも谷山浩子のようなものに限っては確かにそうなんですよね。谷山浩子の作品はひとりで聴くものという感じはあるし、作っている谷山浩子にしてもひとりになって作っているという感じがします。作品にも主人公がひとりでいる状況のものがたくさんあるし、本人が「誰かのために歌を作ることはできない」と過去のインタビューで言っていたりもするように、谷山浩子の歌はひとりの歌なのだという印象が強いです。 それでは結婚してからの谷山浩子はどうなのか。「犬を捨てに行く」(2001)で「わたし」であるところの犬は「あなた」に捨てられる。戻って来るたびに捨てられる。そして捨てられた草原で「闇はわたしの 心のすみか」だと言う。そんな谷山浩子は結婚してからもやっぱりひとりになって歌を作っているのではないかと感じさせます。 でも、歌を作ることは小説を書くのと同じようにひとりなわけですが、歌を歌うことには本を朗読をすることと同じで聴く人間の存在があります。もちろん、ひとりで歌うことも出来ます。ひとりきりで、自分のために歌う。――それが上に書いたような谷山浩子の歌という感じがします。でも、結婚に至る出来事と作品とのことについてこのあたりの特にこのあたりに書きましたが、結婚してからの、語りかけることの出来る誰かがいつもそばにいるという状況が物語そのものの性質に影響を与えているというところもきっとあるのだろうと思います。人間が宇宙へ出るようになった時にそのことが精神に大きい影響を与えるだろうというのと同じように。……っていきなりたとえがうさんくさくなってますが、まあ未婚者にはとりあえずこんなたとえを出してみることしか浮かばなかったり(^〜^;) 2003/4/11 (金) 舞村さんが物語の究極のテーマは「変わる」という現象を描くことと「他者とのコミュニケーション」を描くことだと書かれてますが、わたしの場合のそれは存在しない存在を書くことのような気がします。 物語の語り手というのは書き手そのものというわけではなくて読み手というわけでもない。物語というものが読んでいるあいだだけ存在しているものだと考えるなら、物語の語り手もその物語を語っているあいだだけ存在することの出来るものなのですよね。物語とそうでないものの境というのも同じです。そんな幻のような存在といってもいいものに想いが行ってしまいます。 「私は、今わかりました。私が何にむかって祈っていたか」 谷山浩子は歌でも小説でもそのあたりに意識的なのでおもしろいです。歌だとアルバム「カイの迷宮」【 Amazon 】とか、小説だと「ユキのバースデイシアター」(復刊リクエスト募集中。……っていうか文庫化しましょうよ)なんかのサンリオとか「四十七秒の恋物語」【 Amazon 】(……取り扱い不可。さすがにこれはまだ復刊リクエストもないみたい)あたりにそういうのが多いかな。……うーん、どういうわけかここでもわたしの興味は谷山浩子を中心に回っているのだなと思ったり。 わたしはすごく簡単に言ってしまえばマイナー趣味です。厳密にはマイナー趣味というわけじゃない、と言いたいのですが、そのあたりは話が面倒になるのでパス(^〜^;) で、どうしてマイナーなものを好んでいるのかというところではファンの数がどうとか世間での評価がどうみたいなこともあるのでしょうけど、物語の場合、その作品との出会い方ということが関係するのですよね。 物語は本を開く前から始まっています。本屋や図書館の片隅にある誰も知らないような本。じっと黙り込んで、まるで自分のことを持っていたかのように棚に収まっているその本と出会う。そんな「はてしない物語」みたいな出会いをひとつの理想のように思っている気がします。……素晴らしい作品とそんな出会いをするとなるとものすごく贅沢な望みというか、なかなか出来ないことですが。 マイナーなもののファンであることにも良いこともあれば悪いこともあるのでしょうけど、その中で悪いことといえばそれについての評論みたいなものがないことですね。ネットにそれなりの文章があればまだいいのですが、それすらもなかなかない場合もあるわけで……。 2003/4/14 (月) ライトノベル作家最萌トーナメントッ!!(Locked/Roomより) ■[更新]谷山浩子ファンへの101の質問 あすかさんの回答を追加しました。 あすかさん、ご回答どうもありがとうございました。> |
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