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谷山由紀『天夢航海』感想(ネタバレ長文)

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(以下の文章は2002/09/06に書いたものです)

 この作品について、また感想を書いてみようと思います。

 もう何度も読み返していて、それくらい好きなこの作品なのですが、それでもどのあたりを良いと感じているのかいまだによくわかっていないようが感じがしていて、今回はそのあたりを自分なりに少しでもはっきりさせることが出来ればと思いつつ書いてみます。それと、前に何度目かの再読をした時に書いた感想が、あとから読んでみたら驚くほど簡単なものになっていたということもあって、こんどはしっかりと書いてみようということもありますが。

 ちなみにこれは「天夢航海」を未読の方へ向けた作品内容の紹介や推薦文といったタイプの文章にはなっていません。この作品が未読の方はむしろこの文章は読まないほうがいいかもしれません。この作品は実際に読んでみてその人がどう感じるかということが大事なのであって、ただストーリーを紹介してみてもそんなことにはほとんど意味がない――という作品だと思っているので。だからこの作品のあらすじのようなものも紹介出来なくはないですが、それもここではしません。
 わたしとしては未読の方には「とにかく良い作品なので読んでみてください」というしかないのですよね。ただ、人を選ぶ作品ではあるかもしれませんが。

 今回の感想は内容から各短編について全体について蛇足にわかれています。非常に長くなってしまったので、全部は読めない方ももし興味があれば全体についての部分だけでも読んでいただけたらうれしく思います。

 それでは、まずはそれぞれの短編について。

「ここよりほかの場所」(第1話)

 船に乗れなかったのは「ここ」を積極的に選んだのではなく、わずかばかりの心残りがあったためにその結果として選んでしまったようなもの……。それでも「ここ」を選んだその理由がある以上、あさみはこれからも自分には天夢界へ行くことは出来ないだろうということを知ってしまうのですね。

「ここ」を選ぶ理由が自分にもあるということ。そでがあさみの手にしたものだけれど、それだけがあさみの手にすることの出来たものだったともいえます。「ここ」を選んだことが自分にとって良いことだったのか、あさみの手にしたものが本当に「ここ」を選ぶだけの価値のあるものだったのか。その答えすらはっきりとはわかりません。でも、それがわからなくても、彼女はその選択を受け入れなければならないのですよね。自分が選んだことを受け入れることまでを含めて「選ぶ」ということだから。そしてあさみが選んだのは、「ここ」を捨てられるほど自分は孤独にはなれないという事実、そして自分が特別な人間ではないという事実を受け入れることが出来るかということに対する答えにもなっているのですよね。

 こんな結末を迎えるこの短編はひとつの「失敗」の物語でもあります。それがこの話をせつなく悲しいものにさせていますね。


「めざめ【光をあつめて】」(第2話)

 この短編は怪談話のような展開をみせる「怖い話」だと思っています。この話だけを読んだ場合と第1話から続けて読んだ場合とではかなり印象が違うんじゃないでしょうか。第1話の主人公であるあさみと第2話の主人公である一子は残りの短編とくらべるとかなり近い立場にあって似通った体験をするわけですが、あさみにとっての船が憧れのようなものであるのに対して一子にとっての船は恐怖の対象なのであって、そのあたりはまったく正反対になっています。他の話では天夢界へ行こうとする人間が乗るための船がこの話では一子を「連れていく」ために登場するのです。

 一子が船を恐れていたのは、自分がそれに乗る時は自分がこの世界で本当にひとりなのだということを認めてしまった時なのだと考えていたからのようですね。だから、ひとりでいるということ、そのさみしさは天夢界でも同じなのだということに気がついた時に彼女は船の呪縛からは解放された。ただ、その際に彼女が「ここ」を選んだのはそこにまだ自分のことを呼んでくれる人(あるいは自分のことを呼んでほしいと思っている人)がいたからというだけの理由なのですよね。その選択が正しかったのかとうことはわからない……というあたりは第1話のあさみと同じです。ただ、一子の場合は自分が恐れていたものの正体が船ではなく「孤独になること」だったのであり、それはひとりでいることをさみしく感じる自分がいるからなのだ、というはっきりとした答えを手にして船の呪縛から逃れたわけで、その分だけすっきりした終わり方になっているように思います。

 そんなわけで、わたしは「天夢航海」の中でこの短編が特に気に入っているのですが、それはこの短編が魔物に取り憑かれた少女が最後にそれを追い払うという話になっているから……なのかもしれません(^〜^;)


「よみがえる種子」(第3話)

 この話というのは新井素子のアレと非常に近いと思うのですよね。違うのは、あちらでは主人公が狂っていく自分とそれを理性的に見ている自分の二役をしていたのですが、こちらではその役がタツさんと奈々穂のふたりにそれぞれふられているところでしょうか。

 この話で奈々穂は傍観者です。もしチケットを手にしていたらどうなっていたかわかりませんが、少なくとも第1話、第2話の主人公たちほどには切実に天夢界に魅かれていたわけでもないようですね。彼女はわずかな時間をわかりあえない人と過ごして、その人が行ってしまうのを何も出来ずに見送っただけ。奈々穂は船に乗ることも出来ず、船に乗ろうとする人を止めることも何か言うことも出来なかった

 そんなふうに傍観者にしかなれなかった彼女にとっては実際に自分の目で船を見たあとでも天夢界のことを「おとぎ話」としておくしかなかったのですよね。そんなわけでこの短編も「失敗」の話なのだと思うのですが、第1話と違うのは、自分が参加できないまま天夢界についての物語が終わり何事もなかったようにこれからまた日々の現実を生きていくことになる奈々穂にはそれを「失敗」だと認める余地すらなかったことでしょう。


「いのり」(第4話)

「よみがえる種子」の奈々穂はチケットと一緒に船の連れて行く世界への思いも他人に持っていかれてしまったようでしたが、「いのり」の主人公である若葉の場合、手に入れたチケットと同じように、船の連れて行く世界への思いも「借り物」だったように思います。女子高の中で宝塚の男性役のような人気を自分の意思とは関係なく集めてしまうタイプだった若葉は、自分にはない少女らしさを持ちおとぎ噺のような天夢界の物語を話す後輩の初音にあこがれのような好意を抱いていたのですよね。そんな若葉が求めていたものは、船に乗ることというよりも、まわりや自分自身がイメージしてしまっている自分というものとは違う自分になりたいというようなことだったからなのだと思います。人間関係をすべて捨てるようなことではない、ちょっとした変身願望ですね。その話し相手だった初音も自分のことを都合のいいイメージでしか見ていなかったのだということに気がついた若葉は初音に期待されていた「やさしい先輩」という役を降り、そして船に乗るという、初音のものであったはずの役になることありませんでした。

 一方、この話の中で天夢界に憧れるもうひとりの少女、初音にとってはその関心はどちらかというと船に乗ることより天夢界の話題を共有出来る「同じ魂の人間」を見つけるほうに傾いていたようです。自分は異界の人間なのだいう考えは自分が特別で孤独な人間でありたいという願望で、それは他人には話すことも出来ないほど自分にとっては大事なことです。でも、そうした考えは孤独であるがゆえに逆に同じ考えを持つ他者を激しく求めるきっかけにもなるのですよね。第1話のあさみが感じるように、本当に「ここ」を捨てて船に乗った先の世界へ行くことは誰にでも出来ることではない。そして船に乗ることが出来ない人間には自分が特別で孤独な人間だと思うことの孤独には耐えられない。だから仲間を求める。けれど特別な人間にたくさんの同類がいたらそれはもう特別でも何でもなくなってしまう。……そうしたことによって初音のように「たったひとり」の共感者を求めることになるのですね。


「まわっていく流れ」

 この話はこれまでの天夢界にあこがれる少女たちの話とはだいぶ離れた話になっているように思います。

 他の話の少女たちが天夢界にあこがれていたのはそれが自分のことを特別な人間だと思っていたり思いたがっていたりしたからで、その上で自分の暮らしている地上の人間関係を捨てることを望んでいたからですが、この話に出て来る玲奈の場合は天夢界へ行くこと、天夢界の話題を共有することで出と「同胞」という特別な関係を結ぶことを望んでいました。この地上ではどこにでもある安っぽい関係にしかなりようがない相手に対する感情が天夢界の「同胞」という言葉で他人には誰にも説明出来ないような特別なものに感じられるようになるから。ただ、玲奈にはそう信じらたけれど、相手にはそれが単なる言葉の言い換えでしかなく遊びに過ぎなかった。あさみや一子とは逆に、玲奈はひとりになった時に船に乗ることが出来なくなってしまったのですよね。

「天夢界紀行」で語られているらしい、過去の天夢界であった事故から逃れて地球に逃れて来た……という話がもし本当だったとすると、そうした話が載っている「天夢界紀行」を読んだわけでもなく、出の書いた絵と彼の話だけでいろいろなことを「思い出す」ようになった玲奈は他の話の主人公以上に本当の「天夢界人」だったのではないかというふうにも思えますが、でもそんなことは玲奈にはどうでもいいのですよね。彼女に大事なことは自分が失恋――ありふれた失恋をしたのだということ、そんな自分のことを心配してくれる人もいるのだということ、そしてそんな相手とまたありふれた恋愛をしたりするような未来もひょっとしたらあるかもしれないという、そうした天夢界ではなくこの地上でのことなのでしょうから。


「交信【――そして、山へ】」

 これまでの話に登場した天夢界にあこがれる少女たちが集まる話ですが、これだけチケットを持つ人間がひとつのところに集まってもそれですべてがうまくいくわけではなく、彼女たちは「同胞」にすらなれません。でも、それでもあさみと一子が一緒に行動するラストは、このふたりの境遇や体験したことが近いために当然の成り行きではあるのでしょうね。

 自分と同じようなことを考え、その上で自分の考えを読んで先回りしていた一子の存在、そして彼女と交わした言葉にあさみは驚き、あさみは自分が特別なわけでもなく、自分の求めていたものも天夢界人としての、特別な存在としての「同胞」のようなものではなくて誰もがごく普通に求めているつながりだったのだと気づくわけですね。

 この物語ではどの短編でも事件が解決したり謎が解かれたりといったハッピーエンドのようなものが用意されているわけではありません。それでもこのラストエピソードであさみは自分の求めていたものを手にします。第1話のような消極的な選択ではなく、自分から行動することによって。「自分から歩み出さなければ、何もわからないままだった」というあさみの思いそのものが自分の中に彼女が見つけた何よりも大切なものなのでしょうね。



 次に「天夢航海」全体の内容から思うことについて書いてみます。

 いまの世の中というのは物語であふれています。小説、漫画、TVドラマや映画、そして都市伝説やワイドショー的なものまで。本来は受け手である人間までが物語を作っていたりもします。わたしたちはそうして生まれる大量の物語と毎日のように接し、あたりまえのように消費しているわけです。そんな状況によって虚構と現実が普段の生活の中で混ざり合うほどに隣接していて、大事件になるようなことではなくてももっと日常的なレベルで虚構が現実の姿に影響を与えたり虚構に深入りして現実の生活が送りにくくなるようなことが起こりやすくなっていたりするのではないかと感じます。

 この「天夢航海」に出て来る少女たちも、「天夢界紀行」という虚構の世界にあこがれてその虚構の世界と現実の世界の境界線ぎりぎりまで行ってしまいます。しかし天夢界へ行く船に乗るためには地上での何もかもを捨てなければいけないという孤独で苦しくもある条件があり、彼女たちのあこがれているようなおとぎ話のようなハッピーエンドがそこに待っているとは限らないのだという現実がこの作品では語られます。船に乗らずに地上で暮らしていくことを選んだ彼女たちの選択は物語の住人になることを否定して現実を生きていくことでした。

 主人公が現実の世界から異世界へ行くという、いわゆる「異世界もの」といわれるような物語は小説でも漫画でもアニメでも、それこそ数え切れないほどたくさんの作品が作られています。「天夢航海」はそのような「異世界もの」に近い設定になっていますが、そういった作品なのかと思うとそうではなく、異世界へ行けるはずだったのに行かずに終わってしまうという変則的な形になっています。「天夢航海」がこのような形になっているのは作中で語られるような「夢物語を生きない」というこの作品のテーマそのものを反映しているわけで、そのテーマを誠実に表現するためにこの物語は異世界へ行くという展開を拒否しているのだと思うのです。そしてそれは主人公が異世界で何かを経験してそれによってあらためて現実で生きる意志を持って帰って来るというような筋をとる、いまの世の中にあふれかえっているような「異世界もの」の物語の形式そのものを拒否し、それと違う「(虚構である)異世界へ行くことの否定」という形で現実の肯定を書いた稀有な物語なのだと思います。

「天夢航海」がどんな話なのかを要約するのが難しい作品だと思います。何かの事件が解決されるわけでもなく、魔物や帝国が倒されるわけでもなく、夢を実現したりするわけでもない。そんな、ある意味ほとんど何も起こっていないようなこの作品のことをあえてひとことで表現すれば「覚悟の物語」なのではないかと考えています。覚悟といっても、前向きな覚悟もあれば後ろ向きな覚悟というものもあるでしょう。この作品で語られる覚悟は現実に生きる覚悟であり、ラストエピソードにあるように「行く先には何もない。だから、行く」という覚悟なのだと思います。
 そこにはおとぎ話のようなハッピーエンドが待っているわけではない。そして自分が覚悟したからといってそれで簡単に何かが変わるというわけでもない。そんな現実をそれでも覚悟を持って選んだ彼女たちはもう虚構の世界に魅かれたり現実に干渉して来る虚構に迷わされたりすることもないのでしょう。

 辛いことがあっても悲しいことがあっても、たとえばもっと漠然とした居心地の悪さを感じていたとしても、わたしたちは自分たちが生きている現実からは逃げることは出来ません。もし、夢のような、物語のような世界へとこの現実を捨てて行くことが出来たらという、この作品の主人公たちと同じようなことを思ったことがある人もたくさんいるのではないでしょうか。でも、それが出来たとしても、その世界に行ってそこが「現実」となったら、そこでやはり辛いことがあったり悲しいことがあったり居心地の悪さを感じるのではないでしょうか。  結局のところ、物語はそこから遠く離れたところで楽しむもので、わたしたちはそうして現実から逃げることなく生きていくしかない。わたしたちにはその点で選択肢はないといっていいですが、「天夢航海」はこの現実と虚構とを選択する機会を与えられた少女たちによってそれを描いています。彼女たちには選択の機会があったから、その選択によって覚悟を決められたのだともいえます。でも、わたしたちもいつも選択をしているのですよね。どのように生きるかという選択を。そして迷いながらも覚悟を決めることが出来る。

 いまの世の中は現実とたたかうだけではなく、虚構ともたたかわなければいけないような状況になっているのではないでしょうか。不可解な事件は探偵によって解決され、悪は滅ぼされる。主人公には特別な力があり、最後には幸せになる。そういったものだけでなく、小説からワイドショー的なものまで、現代は人を魅きつける物語が無数に生まれています。わたしたちは現実の辛さや虚しさとたたかいながら、そんな虚構の甘さに誘われて時に我を忘れてしまうような、現実を捨ててしまいたくなるような自分ともたたかっているのではないかと思うのです。この作品に登場した少女たちと同じように。「天夢航海」は、そんな現実だけでなく虚構ともたたかわなければならないこの時代を映して生まれた作品だと言えるのではないでしょうか。

 長々と語って来ましたが、わたしはこの「アンチ異世界もの」とも呼べるような形によってこのように現実と虚構について語った「天夢航海」という物語を現代のファンタジーとしてとても優れたものだと思っています。



 最後に蛇足を。
 ここからは完全にネタバレになっていますので、よろしくお願いします。


 ここに書くのは「いのり」のクライマックス、飛行船を見る歩道橋のシーンでふたりを追い越していく、若葉が「どこかで見たような気もした」(P167)と感じた男が、ラストエピソードの「交信」で閉店してしまっている星華堂の店員なのかという検証のようなものです。

 まず、星華堂の店員は船に乗り損ねたことがあり(P42)、「いのり」に出て来る月船の祭は「やむなく地上を選んだ」天夢界人たちの祭り(P150)なので、少なくとも彼が場にいる可能性はあるわけです。そして星華堂は急に閉店してしまい、彼がどうなったのかは作中でわからないまま終わってしまっているわけですが、その行方が天夢界なのではないかという考えはたんに行方知れずになったというものよりこの場合は自然であるようにも思います。

「いのり」の若葉は男のことを「どこかで見たような気もした」と思うわけですが、この話では「天夢界紀行」を手に入れていたのはほとんど初音だったでしょうから、若葉が星華堂の店員の顔をはっきり見たのは初音とけんかしたあとに「天夢界紀行」の露色号とチケットを受け取る時くらいだと思うので、このあたりも問題はないでしょう。

 問題になるのは時系列ですね。

「交信」でわかるようにこの物語に登場する少女たちは(初音の先輩として登場する若葉たちを除いて)みんな高校1年生で、それぞれの物語も時間的に1年以上の差はないと思われます。

「ここよりほかの場所」は節のタイトルでわかるように7月21日から9月1日
「よみがえる種子」「暑い」「期末試験があって」という描写(P108)からクライマックスが7月頭あたりのことで、そのあとに「1ヶ月ほど経って」手紙をもらうのが8月といったあたりではないかと思います。
「めざめ」「まわっていく流れ」は星華堂が直接にはほとんど出て来ない上に暦のわかるような描写などもないので別としていいでしょう。
 そして「いのり」では若葉と初音が初めて言葉をかわした場面で「約半年前、二月の予餞会」という記述があるのと初音が泣いていた理由として「中間テストが悪くて……」という記述がある(P129)のとで、話の発端が6月になったあたりかというところですが、……そのあとの最も肝心なクライマックスのシーンはいつごろなのか不明なのですよね。
「交信」の頭には冬服への衣替えがあるので(P220)これは10月頭あたりでしょう。それから時間が経って「十月も下旬となった」という記述もあります(P244)。

 そんなわけで、星華堂は閉店したのは少なくとも「ここよりほかの場所」のラスト、9月1日から「交信」の最初の10月の頭のあいだだろうということになるわけですが、そうすると「いのり」に出て来る男が星華堂の店員だという説が成立するのには件の月船の祭のあった十九夜が9月だということになるわけですが、ここでいちばん苦しいのは「いのり」の中に夏休みと思われる期間の描写がまったくないことなのですよね。ただ、夏休み前までの話だとか夏休みのずっと後に終わる話だと特定されるわけでもないので否定材料になるわけでもないのですけど。

(ちなみに「ここよりほかの場所」にある、この物語の中で最初に「天夢界紀行」登場する7月21日のシーンではこのあいだまで置いてあったのが「キャベツ色」の表紙の号だったとあって(P11)、「先月出たばかりだったから」こんなに早く次の号が出るとは思わなかったとあります(P12)。そして「いのり」で初音が若葉に渡す天夢界紀行が「淡い緑の表紙」の苗色号とあります(P130)。そんなわけでこのふたつが同じ号なのではないかとも思えるのですが、これも時期を特定するものにはなりませんね)

 そんなわけでこの説が正しいかというと、物語として余りなく割り切れるように解釈しようと思えば限りなくそう見えてくるけれど、そうでなければたんなる考えすぎだとも思えるわけで、結局どちらともとれるというレベルでしかわかりませんでした(^〜^;)

 ただ、若葉が見た男がそうかは別としても、閉店した星華堂の店員は船の上の人となったのだという可能性は時系列の問題を無視しても成り立ちます。すでに書いた通り、それが星華堂閉店の理由として思いつく理由として自然なものではあると思うのですよね。


 そんなわけで、蛇足も終わりです。お付き合いいただいた方、どうもありがとうございました。
 こういうのってちょっとミステリ的な読み方みたいかもしれませんね。……でもこのあたりをネタにしてSSを書いたりするところまでいけば同人的な妄想ということになるのでしょうか(^〜^;)


 で、猫はどうなったんでしょうね……(^〜^;)(^〜^;)


2002/09/06

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