う た た ね こ や
〜 谷山浩子と本のあるところ 〜 

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銀の記憶

 静けさと寒さの中で理絵のことを待っていた。
 誰もいなくなった冬の教室は、ずっと昔に捨てられた廃墟のように無機的に見えた。それは大げさだ、とわたしは否定しようとする。ほんの少し前にはここで授業をしていたのだし、きっとまだ生徒もたくさん残っている。部活だってあるはず。ところが、そういった人の気配だとかざわめきだとかいったものはこの教室にいるわたしにはほとんど感じられなかった。無音の世界――。それを照らし出そうとしている蛍光灯の明かりも、この寂しさに反応して弱々しくなってしまったのかと思わせるように、まだ夕暮れには早い時間なのにやけに薄暗い。
 職員室まで日誌を出しに行った理絵が戻って来たら一緒に帰ることになっていて、そこに座るはずの人間を失った机と椅子がじっと黙り込んだまま規則的に並んでいる教室にいた。
 あの子が出て行ってからしばらくは理絵の隣の席に座ったまま彼女を待っていたけれど、ひとりでいる内に少しずつこの場所が冷ややかな影のようなもので包まれているように思えて、落ち着かないものを感じながらわたしは立ち上がっていた。この中で動いているものはわたしだけだと気づく。ここにあるものは動く必要がない。わたし以外は。胸の奥を波立たたせている原因は自分自身がここにいることなのかもしれない……。
 さっき、日誌を書いている理絵と話したりちょっかいを出したりしていた時には気が付かなかったけれど、こうして動くもののなくなった静かな場所にひとりでいると空気――というよりも空間そのものがさっきより重い。自分のいるこの空間がまわりの世界から閉ざされていくような気分になる。教室の扉は片方だけど開いているし、校舎だって別に閉じているわけではないのだけれど。
 落ち着かない気分をふり払おうと、わたしは窓際の席の机に腰かけて、窓から外の景色を眺めることにした。景色を見るのなら本当は屋上にでも行ったほうがいいのだけど、いまは理絵を待っているのだからそうにもいかない。
 外から声が聞こえなかったので想像出来たけれど、窓から見下ろした校庭には思った通りというか、やっぱり誰もいないようだった。人の姿を探して校門のほうや真下の昇降口のあたりをきょろきょろしても閑散とした風景があるだけ。あきらめて空を見上げてみると、そこにあるのは世界を覆うような一面の曇り空だった。濃い灰色の雲が、同じパターンを貼り付けていったかのように、視界全体に敷きつめられている。天気予報で雪が降るようなことを言っていたのを思い出す。いまはそれどころか雨も降っていないけれど。
 理絵はまだ戻って来ない。ただ日誌を渡すだけならそろそろ戻って来てもいいはずだから、先生に何か用事でもいいつけられているのかもしれない。……もしかすると、あのおばちゃんに何か説教でもされていたりとか。
 曇りの天気でも、その雲の向こうには太陽がある。見えなくても、夏の暑い日と同じように光を発しているはず。その太陽の姿をわたしは頭の中で思い浮かべて、目の前に広がっている鈍い色の雲に透かして見ようとした。もちろん、それで寒さが和らぐ思ったわけじゃないし、この暗い教室の雰囲気も変わらないのだけれど。
 星の光だって、昼のあいだも届いている。太陽の強い光でそれは見えなくなるけど、この空の向こうには人間の手が届かないほど深い宇宙が広がっていて、遠く離れたところにある恒星と、その星が発する光で繋がっている。
 しんとした教室にハミングが流れている。わたしの即興のハミング。それは自分でも憶えのないメロディーだった。重く閉じているように感じる空間にも、その外にどこまでも広がった空間がある。そんなふうに考えていたらさっきまでの不安定な気分がどこかへ行ってしまったらしい。人に聞かれたら恥ずかしいだろうけど、誰かが廊下を歩いて来れば音ですぐにわかるだろうと、そのあたりは深く気にしない。
 静かに流れ始めたハミングがメロディーの進行につれてほんの少しずつ大きくなる。初めは遠くまで聞こえないようにと気をつけていたのがだんだんと気にならなくなって、いつの間にか何も考えずに歌うようになっていた。この寒さも教室の静けさも気にならなくなる。自分ででたらめに作っているはずのこのメロディーをずっと前から知っている曲のように感じる。そう思うくらい、まるで昔から知っている曲を誰かと一緒に歌っているようにそのメロディーは自然にわたしの体の中から流れていた。
 そうしてしばらくのあいだ続いていたハミングが終わった。わたしはひとつ深呼吸をした。
 ――そこで我に返る。誰かがいるような気がして、わたしはいきなり机から下りて教室の入り口のほうをふり返っていた。……まあ、いまさら慌てたってしょうがない。理絵だったら笑ってごまかすことにすればいいか。そんなふうに思いかけたわたしの前に立っていたのは理絵なんかじゃなかった。
 少年は、扉の外ではなく、教室の中へ少し入ったところに立っていた。わたしが鼻歌を歌っているあいだにやって来たのだろう。すっかり夢中になって、彼を見て、見ず知らずの人間がいることにも気付かないまま下手なハミングをしていたことをいまさら恥ずかしく思い、わたしは言葉を失った。
 少年はわたしのほうへと歩み寄って来た。
「きれいな歌だね」
 少年の声には声変わり前の高さがあるようで、それでいて深みというか、おだやかさみたいなものがあるように思った。表情からしても、少なくともからかったりしているような感じはない。彼の浮かべている微笑は親しい友達に向けているようなすごく自然な感じがする。
「そ、そんなことない……です」
「何ていう曲なのかな」
 曲のタイトル。
 きれいな歌だと言われたのを、自分のハミングが誉められたように思っていたことにわたしは気付いた。そうではなく、彼がきれいだと言ったのは曲のことだったらしい。……つまり勘違いだったわけだ。
「タイトルなんてついてないけど……」
「そうなの?」
「だって、適当に歌っていただけだから」
「うん。きみの歌だから、きみに名前を聞いたんだ」
「でも、どうして自作だなんてわかったの?」
 質問してみたけれど、こんな場所でひとりきりで聞いたこともない下手なハミングをしているのを見たら即興だと思うのが普通なのかもしれない。
 でも、彼の答えはわたしが思い浮かべたものとはまったく違っていた。
「その歌は僕自身なんだからね。自分のことを知ってるのは当たり前だよ」
「え……?」
 少年の言葉がうまく呑み込めなかった。それは話の内容が難しくて理解出来なかったとかいうわけじゃなくて、急に相手が外国の言葉で話し始めたというような感じだった。聞き間違いかもしれないと思った。
「いま、何て言ったの?」
「僕はきみが歌っていた曲。その歌そのもの。だからきみにはわかると、そう言ったんだ」
 目の前に立つ少年。……彼のことをわたしはもう1回ちゃんと眺めてみる。
 背は高いというのに顔は女の子みたいに小さい。髪の毛は長髪というほどではないけれど男の子にしては少し長い。眉毛は細いわりに輪郭がはっきりとして意志の強そうな印象もあるけど、その下にある瞳には落ち着いた印象がある。こうして細かいところを見ていくと、それぞれの部分はそれでわかったような気になるけど、それをトータルした全体の印象は何だか曖昧でよくわからなくなってしまう。ただ、うちの制服を着ているのだからやっぱりこの学校の生徒なのだろう。わかることはそれだけだ。……それだけ。
 わたしの記憶に彼の顔はない。けれどわたしに対する彼の親しげな様子から考えると、ひょっとすると前にも話したことがあって、わたしがそのことを忘れているだけなのかもしれない。そこまでいかなくてもよく姿を見かけていたとか。わたしが気に留めていなかっただけで。それが本当なのかはわからないけれど。
「あなたは誰なの?」
 率直な疑問をわたしは口にしていた。
「また同じことを答えなくちゃいけないのかな」
 特に腹を立てたとかいった様子はなく、彼が見せたのはちょっとだけ困ったような顔だ。
「僕はきみの歌なんだ。僕のことが見えているきみにはそれが理解出来るはずだよ」
 やっぱり外国の言葉で話しているようだった。
 でも、もしも相手の話しているのが外国の言葉だからといって、理解することが出来ないとは限らない。ふいにそう思った。わたしがその言葉を知っていたとしたら。そうじゃなくても、それでコミュニケーションが出来ないと決まるわけでもない。わたしには彼のことが理解出来る。――少年の言った通りならそういうことになる。
 その瞬間、ふいに彼の姿が見えたように感じて、わたしは目眩を起こした。
 見えた、といまになって言うのはおかしいかもしれない。でも、わたしは確かにそう感じていた。それは視力の弱い人が初めて眼鏡をかけて世界を見た時のような感覚なのかもしれない。そしてそれは彼だけが見える眼鏡だ。かけた瞬間に目の焦点が彼へとぴったりと合って、ぼんやりとしていた姿がくっきりと浮かび上がる。それがあまりに強い感覚だったからか、そのかわりにいままで見えていたまわりの世界がぼやけてどこか遠くへ行ってしまった気さえした。
 わたしには少年のことだけが見えていた。
 彼はうちの制服を着ていたけれど、うちの生徒なんかじゃない。それもわたしには確信出来た。たまたまわたしが見かけたことがなかったとか、そんなことじゃない。たぶん、彼はこの学校の生徒じゃないだけでなく、どういえばいいのかわからないけど、もっとずっと遠くの存在なのだ。こうしてあらためて彼のことを見ながら、そんなふうに思う。
「……でも、どういうこと?」
「わかってくれたみたいだね」
 わたしは頷くことしか出来なかった。
「あなたが歌だっていうのも言葉の通りなの?」
 この自分の目に映っている少年は実際にこの世界で目に見えるような形で存在しているのではなく、もっと別の存在に思えた。――それが彼の言葉にあった「歌」ということなのかもしれない。
「世界というものは音楽で出来ている。そういうことなんだ」
「あなたもそうなのね」
「そう。世界には時の流れというものがある。風の流れ。水の流れ。生き物の体をめぐる血液の流れ。流れている時の中のあらゆるものにメロディーがある。鳥の歌。子供の泣き声。重なった落ち葉が鳴らす音。人の耳には聞こえないメロディーもある。つぼみだった花が開く音。日の光に照らされた水が気体となって空へと昇っていく音。冷たい宇宙の中を数限りない星たちがめぐっていく音。世界はそれぞれが奏でる音楽でつくられていて、ぼくもその中の音楽のひとつなんだ。もちろんそれはぼくだけじゃない。きみもそうなんだよ」
 少年の口からこぼれていく言葉はそれこそ歌のようだった。こうして耳を傾けていると彼の言っているそのことがよくわかる気がした。そして、だからこそここにいる少年のことがとても遠く感じられるのだとも思う。
「でも、あなたはわたしとは違う。そうでしょう? わたしの鼓動はリズムを持っているかもしれないし、わたしの歩く音にはテンポがあるかもしれないし、わたしの言葉にはメロディーがあるのかもしれない。でも、あなたはそんなふうにして音楽をつくっているわけじゃない。そこにいることが音楽そのものだから。……あなたは本当にそこにいるんだよね?」
「もちろんだよ。僕はここにいる。だからきみと話すことが出来るんじゃないか」
 当たり前のことを当たり前のように言った、その言葉が彼の口から出ていることが不思議に感じられる。
「心というものは見えないものなんだ。それは音で出来ていて、音によって相手に伝わる。口に出せる言葉による詞。言葉にならない想いのメロディー。沈黙というブレイク。心というのはそうしたもので出来た長い歌。だから普通は見えない」
「あなたは見えているよ」
「そう。あの時に歌にしたきみの心が、僕の心の歌とまったく同じ姿をしていた。きみが耳にしたのは自分が歌にしたきみ自身の心でもあったけれど、僕の心でもあったんだ。きみはそれで僕のことを知った。きみが歌にすることで僕は初めてきみの目の前に生まれたようなものなんだ」
「あなたはどこか違うところから来たというのね」
 違う世界から来た人。あの世から迷い出て来た幽霊。わたしはそんなものを連想していた。そうでなければ、ちょっとイメージは違うけれど、ファンタジーに出てくるような魔物。さっきの歌がちょうど呪文のようなものになっていて、そうしたものを召喚してしまった。――少年の話はそんなふうにも聞こえる。
「きみだっていまは本来の世界にいるわけではないんだよ。僕たちはお互いに引き合ってきみと僕の世界のあいだにあるここへ来たんだ。それは有り得ないことで、奇跡的なことなんだと思う。この世界に存在しているのはきみと僕だけなんだからね」
 そういえば、とわたしは理絵の顔を思い浮かべる。あれからどのくらいの時間が経ったのか。いくらなんでももうあの子が戻って来ていてもいいはず……。わたしは少年のいるほうとは別の、教室の反対側の扉のほうへ目を向けたけれどそれは閉じたままで少しも動く気配はなかった。
「でも、もう僕たちは帰らなければいけないんだ。僕は僕の世界に。きみはきみの世界に」
 彼の言葉に視線を戻すと、最初に見た時と同じようにその顔には親しい人間に向けるような穏やかな笑みがそのままあった。そんなふうに見えるのは、わたしが彼のことを親しく思っているということなのかもしれない。その少年が、ふいに身体の向きをくるりと変え、静かに教室の外へと歩き始めた。……それはまったく音の気配を感じさせない動きだった。むしろまわりに静寂を生みながら歩いていくようにさえ感じる彼の動作は、ちょうどこんな寒い日に降りだした雪のように感じる。音がしないというわけではなく、それは音にならないような深く押し黙った音楽なのだ。少年は廊下に出たところであの顔のままわたしのほうを一度振り向き、そしてすぐにいなくなった。
 教室を出ていった少年を見送って、わたしはただぼんやりと立っていた。
 いきなり目の前に現れて、そして去っていった少年。……胸に湧き上がって来る疑問はうまく言葉にならずに、それどころか何に対するものなのかもわからなかった。わけもわからないまま、それでもこのまま彼のことを見失ったらいけないという思いに動かされ、わたしは見えなくなった少年の姿を追いかけて教室をあとにした。
 廊下に出て、慌てて彼の歩いていったほうを見たけれど、直線に伸びる長い廊下のどこにも姿はない。
「あ、理絵!」
 そのかわり、こちらへ向かって歩いて来る理絵をそこに見つけた。――ひょっとしたらあの子が彼の行き先も見ているかもしれない。
 ここにいるのがわたしと彼のふたりだけのようなことを少年が言ったのをわたしも信じかけていたような気がする。理絵を見てそう意識した。
「ねえ、いまそこを通った人がいたでしょ?」
 そう言って近寄りながら、何か変だと感じた。
 理絵に返事をする気配がまったくない、というよりも声をかけられたことに気づいていない。
 ……おかしいと思ったのは、でも、それより前だった。わたしが見つけてからこの子は少しも動いていなかった。右足を前に出して体重を移動させているような状態、歩いているようなその体勢のままで理絵はずっと固まったままだ。
 彼女の腕を取ってみようとすると、それはよく磨かれたガラスのように滑らかで冷たい感触がして、動かすことも出来そうになかった。
 わたしがそうしているあいだも理絵は教室のほうをまっすぐに見つめて、中途半端な姿勢のままで時間が止まったようにそこで佇んでいる。
 時間が止まったんじゃなくて、やっぱりここが違う世界だということなのかもしれない……。あらためてあたりを見回してみても何かが違っているようなおかしな感じがした。前後に続いている廊下の床、壁、窓。どれもが古くなった写真で見るように薄ぼんやりと浮き上がっているように見える。さっき教室にいた時に感じていた空間そのものが重くなったような感じとも違う。それとは反対に、確かにそこにあるのにもかかわらず存在感のない、映画か何かの大掛かりなセットみたいだった。
 いまはそれどころじゃなかった……。
 理絵をその場に置いたままにしてわたしは走り出した。まさか他の教室に入ったなんてことはないだろうから、やっぱり彼はもう階段を下りて行ってしまったのだろう。
 ……いや、そうじゃない。階段まで辿り着いたところでわたしは別の可能性に気がつく。
 少年は階段を下りたんじゃない。昇って行ったんだ。なぜかそう思う。
 わたしは迷う間もなく階段を駈け上がっていた。2階から3階。そして3階から屋上へ。一段抜かしで走り抜けて、開いたままになっている扉から外へ出た。
 少年はそこにいた。出口の右手に行ったところ、屋上のフェンスを背にして空を見上げて立っていた。
 安心してわたしは息をついている。まだ消えてしまったわけではない。
 ――そう考えた自分にわたしは驚く。まだ消えないという、その言葉はもうわたしの中で確かになっていて、ないことには出来なかった。「帰る」と言ったはずの少年がこんなところに来ていても。でも、屋上へ来て、彼はいったいどうするというんだろう。
 屋上の、建物の外に出て来ても、廊下で気がついたような違和感はあって、屋外に出て来たような感じがあまりしなかった。内と外で空気に変化がない。気温が下がった感じがしなかったし、冷たい風が直に頬を叩いていくこともない。もちろん風の音も何も耳に入ることはなかった。少年の見上げている空にはさっき教室の窓から見たようにくすんだ灰色の雲がどこまでも続いていて、わたしはそれを見て白黒の映画を見ているような気がした。昔の白黒映画ではなく、回想シーンか何かをわざと白黒で撮った、演出の映像のような感じだった。無音で、人工的とも思えるような滑らかな風景。……当たり前でないそれは美しい眺めだった。
「ああ。来たんだね」
 こちらに気がついて、彼がわたしのほうを向いた。
「あなたの言ったこと、何となくわかった気がする。ここにはあなたとわたししかいないっていうこと」
 ここはわたしの知っている世界じゃない。元の世界から時間の流れが抜け落ちたような、そんな世界なんだろうと思う。
「残響の世界なんだ、ここは。きみから流れた歌と僕という歌とが共鳴した、その余韻によって奏でられている世界。それはほんの短い時間に生まれて、そして消えてしまう」
「それじゃあ、やっぱりこれは夢なんだね」と、わたしは考えていたことを言う。「目が醒めてしまったらもうあなたには会えない。よくわからないけど、そういうことなんでしょう?」
「……夢というのは違うけれどね」
「あなたは寂しいとかいうふうには思わないんだね」
 最初に見た時からずっと、少年は笑顔のままで、それはわたしには少し悔しかった。
「寂しい? 僕のことが見えなくなるから? でも、さっきも言ったように、それは当たり前のことで、そっちのほうが普通なんだ。だけど、寂しく思うことなんてない。だって、目に見えるものだけがすべてじゃない。世界は音楽で出来ていて、耳をすませば見えないものを感じられるはずだから」
「……そんなの全然わからないよ」
 どこにぶつけたらいいのかもよくわからない声を挙げたその時、ふいに遠くから何かの音がした。少年とわたしの声の他には何も聞こえなかったこの世界に鳴り始めたそれは、一瞬わたしが連想した学校で流すチャイムとは全然違う響きだった。いくつもの鐘の音が重なって世界全体に鳴り渡るようなそれは、童話のシンデレラの1シーンにある、魔法がとけそうになったシンデレラが急いでその場を去ろうとするところを思い起こさせるものだった。
「時間だ」
 そう言われて、世界の終わりを告げるように奏でられる不思議な鐘の在り処を雲に覆われた空の向こうに見つけようとしていたわたしは、少年に起こっている変化に気がついた。
 彼の背中の後ろに白い色をした何かがある。それはわたしの見ている前ですぐに何なのかはっきりとわかるものへと形を整えていった。……翼だ、と思った。このモノクロの映像のような世界でその部分だけを切り抜いたかのように輪郭のないただただ真っ白な翼。背中にその大きく広げた翼をつけた少年の姿は輪郭がなくなったように薄くなっているように見えた。
「あの歌をまた歌えば会えるのかな」
 少年に問いかける。
「無理だと思う。これは奇跡のような出会いなんだよ」
 次第に大きくなった少年の翼は、滑らかな動きで空を掴まえて、彼を屋上から引き離した。
 少年の立っていた場所に走り寄ったわたしに、彼はやっぱり初めて見た時と同じ穏やかな微笑みのままで「さよなら」と別れの言葉を告げた。
 翼の動きに合わせて少しずつ空へと昇っていく彼のことを見ていたわたしは、その表情に対して感じていたのは親しい、とうよりも懐かしさのようなものなのかもしれないと思っていた。
「さよなら……」
 つぶやいた言葉が届いたかどうかはわからなかった。
 少年のいる空に羽根が舞っていた。
 ゆっくりと高みへ昇っていく少年の背中に生えた翼が世界で最も白い羽根を無数に散らしていた。くすんだ灰色の世界をまっさらな白にするように羽根は途切れることなく舞い散って、音もなく降って来る数え切れない羽根の中でわたしはもう何をすることもなく薄れて見えなくなっていく少年のことを見つめていた。鳴り続ける鐘の音の中、やがて黙って立ちつくすわたしの瞳から少年の姿は消え、そして鐘の音も消えた。それでも時間が止まってしまったようにわたしはその場所を動くことが出来なかった。

「あーっ、やっぱりここにいたよ」
 ようやくわたしを動かすことが出来たのは、その時に聞こえて来た良く知っている声だった。
 ふり返ったわたしにちょっと不機嫌そうな顔をした理絵が言う。
「教室で待ってるって言ったのに、何でこんなところにいるかなあ」
「……ごめん。ちょっと外の空気が吸いたくなって」
 ごまかしてそう答えたけれど、理絵の言う通りだった。本当にどうしてわたしはこんなところにいるんだろうな……と思う。ちゃんと原因があって結果があるのに、その原因はもうこの世界にはいない。
「……あれ?」
 声を上げたのは理絵だったけれど、その前にわたしも白いものが舞っていることに気がついた。
「本当に降って来たんだね」
 顔を上を向けていた理絵に倣って空を見る。
 雪が降っていた――。
「天気予報もあたるもんだね」
 そう答えながら、降り始めた白い粒たちを仰ぐ。いくつもの空を舞う雪に彩られた景色。これも聴こえない音楽なんだ、と言葉を失ったようにそれを見ている。「目に見えるものだけがすべてじゃない」という彼の言葉を思い出す。その少年の声がわたしの胸の中でだけ再生されて聴こえる。わたしに残されたものはそれだけだった。彼はもういない。でも、いま聴こえている少年の声は幻なんかじゃない。
「そろそろ帰らない、星乃」
「あ……、うん。そうだね」
 急に寒さを感じた。こんな寒い中をコートも着ないで立っていたんだから当たり前だ。
「でも、わたしが屋上にいるってよくわかったね」
 歩き始めていた理絵が、ふり返って何でもないことのように答えた。
「そりゃ、わかるって。星乃っていったら屋上でしょ」
「……そうなの?」
「そうだよ。授業中だってしょっちゅう窓から外の空見てるし。星乃と煙は高いところが好きっていうのは常識だよ」
 そうだったんだ……、と思って少しだけ恥ずかしくなった。意外と見られているものらしい。
「ほらー。早く行こうよー」
 理絵が校舎に入る扉のところから呼んでいるのを見て、歩き出す。
 少年が言ったように、きょう歌った歌はもう歌えないかもしれない。でも、そのかわりに、わたしはきょうこの日のことをいつかは歌にすることも出来るかもしれない。――降り続いている雪の中を歩きながらそんなふうに考えていた。


あとがき
 眠りの森会報「Moon Song」に掲載させていただく予定。谷山浩子「銀の記憶」のイメージストーリー。

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