う た た ね こ や
〜 谷山浩子と本のあるところ 〜 

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季節はめぐって
 この夏、僕は一人旅をしていた。生まれて初めてのことだった。
 ようやく夏のあきれ返るような暑さがおさまり、だけど秋の気配を見せるにはまだ少し早い、そんな季節だった。
 もう少し早い時期だったら虫とり網やかごを持った子供たちがたくさんいたのかな。僕は他に誰も客のいない車内を見渡しながらそんなことを考えていた。もう夏休みも終わった平日の昼下がり、ぐるりと山に囲まれた景色の中を、僕の乗ったバスは時間からとり残されそうなほどゆっくりしたスピードで走っていた。

「次はー、ミドリガイケー、ミドリガイケー」
 それは次の停留所を告げる車内放送だった。
 どこかで聞いたような名前だと僕は思った。確かにどこにでもありそうな地名ではある。だけどそれだけじゃない、そんな気がした。
 そして、なだらかな坂を下り始めたバスに、ガタン、ガタン、と揺られながら古い記憶を辿っていった僕は、幼い頃に遊んだミドリくんという名前の女の子のことを少しずつ思い出していった。

「あそびにいくよーっ」
 学校から帰るとランドセルを置く間もなく聞こえてきた、ミドリくんのその声がいつもの合図だった。僕があわてて表に出ると、ミドリくんはもう青いシャツとズボンに着がえて待っていて「おそいぞぉ〜」と口を尖らせる、それもいつものことだった。
 引っ越してきてなかなか友だちができなかった僕を、ミドリくんはなぜかいつも外へ遊びにつれていった。いま思い出してみると自転車の乗り方とかキャッチボールとか、僕はみんなミドリくんから教えてもらったような気がする。
「きょうは何するの?」
 その日、僕がそうきくと、ミドリくんは楽しそうに言った。
「きょうはね、ぐるぐる山に行くんだ」
「えーっ、あんなとこに行くのー」
 ミドリくんは学校ではおとなしかったみたいだけど、遊び着だったらしい夏の空のようにまっ青ないつもの服に着がえると、もうぜんぜん別人みたいに生き生きしていた。
「このことは誰にもいっちゃだめだよ。いい?」
 そう言ってミドリくんが僕に何度も話していたことがあった。
「ぼくね、ほんとは男の子なんだ」
 ミドリくんはそんなかわった子だった。
 はっきりいってどこまで本気で言っていたのかわからない。だけどその頃の僕はもしかするとそれを本当に信じていたのかもしれない。「くんづけ」で呼んでいたぐらいなのだから。
 その日遊びにいったぐるぐる山というのは子供にとっては「秘境」というイメージがあった。僕は怖がりだったからあまり行きたくなかったし、その日ミドリくんにつれられてしかたなく登ったそこは本当に昼でもお化けか何かが出そうなほど暗かった。だけど、実際には子供が半日で登ってこれるほどのその山は、思ったよりは怖くなかった。
 だけど僕がすっかり安心していた帰り道で、ミドリくんがころんで歩けなくなってしまった。それで家までの残りの道を僕はミドリくんをおぶっていくことにした。
「ごめんね。もう遊べなくなっちゃう…」
 僕の背中でミドリくんはそう話し始めた。
「え!? どうして?」
「…ボク、こんど引っ越すんだ。もう…すぐなんだ。だから…」
 それっきり僕たちは黙ってしまった。
僕はだんだん暗くなっていく空をじっと見ながら歩いた。ぐるぐる山が怖くなかったのはミドリくんといっしょだったからだ、なんて思いながら歩いていた。

 僕は、どうやら居眠りをしていたらしい。
 目をさますと、バスはちょうど「ミドリガイケ」に着いたところだった。
 …そう、そのミドリくんが引っ越していったところが「ミドリガイケ」だった。それが具体的にどこだったかはおぼえていなかったけれど、ミドリくんと同じ名前がついたその地名だけは思い出すことができた。
 あの子は今、どうしているのかな。案外ごく普通の女の子になっているのかもしれないな、と僕は思った。ちょうどあんな感じかな。その時バスに乗ってきた女性を見てそう思った。「ミドリガイケ」でのただ一人の乗客だったその人は、僕と同じぐらいの年で、頭には麦わら帽子をかぶり、そして見覚えのあるあの夏の空のように真っ青なワンピースを着ていた。
 あれは…そう、ミドリくんが好きな色だったんだ。そう思った時、僕はもう彼女に声をかけることを決めていた。
「ミドリくん、…だよね」
 答えは聞く必要もなかった。僕も自分が誰かなんてことを答える必要はなかった。僕たちは互いに子供の頃からそれを知っていたのだから。
 僕たちは並んで座って、いくつかのことを話した。昔の事、今の事、そしてこんな偶然がおこる確立について。そのあと、手紙を書く約束を交わした時には彼女が降りる停留所までもうほんの少しだった。別れのあいさつをした時、僕はふと思いついてこんなことを言ってみた。
「ミドリくんはやっぱり男の子じゃなかったんだね」
 するとミドリくんは、まわりに人なんかいないのに、それでもすごく大事な秘密を話す時のようなあの小さな声でこう言った。
「なに言ってるんだよ。もちろんボクは男の子だよ」
 そしてミドリくんはあの頃と同じ笑顔で手を振り、そして軽い足どリでバスを降りていった。