待ちあわせの野原で
僕は今、永い眠りからほんの少しだけ目を覚まして、この丘から遥か遠くにまで広がっていく世界を眺めていた。
まだ、冬だ。
薄暗い空からこの白く続く大地へ、後から、後から、雪は決して終わることがないかのように降り続いていた。春になれば鮮やかな緑の野原が広がるはずのこの丘の地面も、その下に見えるはずの人家も、今はその圧倒的な冬の力に封じ込められていてその姿は見えなかった。
静かだ。
ここには音というものがまったくなかった。
それは…、きっとこの雪のせいだ。つきることなく舞い降りてくる白く冷たい冬の天使たちがきっとこの世の中の全ての音を吸い込んで、その内側に閉じこめてしまっているのだろう。雪たちは静かに静かに降り積もり、知らず知らずのうちに世界を別のものへと変えてしまう。誰もが気づかないうちに冬の世界へと連れてこられ、そしてその中にとじこめられてしまう。
僕は、この広い雪の野原にたったひとりとじこめられている。
だから、ここには誰の声も届かないんだ。
そう。あの君の懐かしい歌も。
今ごろ、みんなどうしているだろう。君は、まだあの約束のことをおぼえているだろうか? 僕はここにいます。みんなで待ちあわせの約束をしたこの場所に。
待ちあわせの場所はこの丘の上。
時間は…。そう、時間は決めてなかった。誰もそんなこと少しも考えてなかった。…だから、もし君が待ちあわせのことを思い出したら、その時に来てください。それが、待ちあわせの時間だから。
…こうしてしゃべっている僕の声が君に届くかはわからないけど、僕はいつだってここに立っているから。
丘の上に立つ、大きな樹を目印にして来てください。
この丘には天を支えるようにして立つ大きな樹があった。僕たちは暇を見つけてはよくその樹の下に集まり、そしてここでみんな歌ったり話をしたりしていつもすごしていた。何でもないようなそんな時間が僕たちにはとても大切なものだった。
その日も、僕たちはいつものようにそこへ来て、そして何をするということもなくただ座っていた。
「もうすぐ…戦争が始まるんだね」
そうつぶやいた君のとなりで、僕は何も答えられずにただ黙りこんでいた。君もそれだけ言ってまた口を閉じてしまったから、僕はじっとうつむいたままでいた。
…それはいつのことだったのだろう。
たぶん、それは春から夏にむかって、空からあふれるようにして降りそそぐあたたかな陽が、あらゆる緑を日ごとに濃く鮮やかに塗りかえていく、そんな季節だった。このころになると、丘の上にもいつもの年と同じように草の野原がなだらかな斜面にそって下まで広がり、その真ん中、丘のてっぺんに立つこの樹にも数えきれない葉がその枝に繁リ、その下に大きな木陰をつくるのだった。
君は両手で足を抱えて空を見上げていた。その君の顔も陰になっている。それは僕も、ほかのみんなも同じだった。この樹の下では僕たちの影はいつもひとつだった。それなのに…。
君は上を向いたまま、またつぶやいた。
「僕はみんなのことがとても好きなんだ…。だから、ずっと、いつまでも一緒にいたい。それだけなのに…」
そう言って今度は下を向いてしまった。
「僕も、みんなと歌うのがすごく好きだよ…。だけど…」
だけど…僕にはどうする事もできなかった。
ここは戦場になる。僕たちは、それぞれすぐにこの土地を離れないといけなかった。
もう会えないかもしれない。みんな、そう思っていたのだろう。
「願い事をしうよ。またみんなで会えるようにって」
そう言ったのは誰だったのだろう。
僕たちは樹を丸く囲むようにして並んで祈った。この樹にはそうした願いをかなえる力があると言われていた。
そして、みんなでまたここで会うことを約束して別れたのだった。
やがて、時が過ぎ、戦争が終わって僕が帰って来た時のこの土地はひどく荒れ果てていた。そして僕は丘の上の樹がなくなっていることに気がついた。戦争で焼けてしまったらしかった…。
君は…、帰ってこなかった。
それからとてもながい時がたち、そして僕はここにいる。あのころ僕たちが見ていたような樹に生まれ変わって立っている。いつの日か、君が来た時にここがわかるように。僕たちの願いがかなうように。
君もこの世界のどこかにいるのだろうか。
ふいに、鈍い音がした。枝に積もっていた雪が落ちた音。あたりまえだけど、ここにも時間が流れている。やがて春が来れば、この枝にやっぱりたくさんの葉が芽を出すのだろう。今はまだ僕の中で眠っているけれど。
そんなことを考えていたら、君も僕の中にいるんじゃないだろうか、なぜかそんなふうに思えた。君も、僕も、みんながここにいるんじゃないだろうか。願ったのは誰だろう。ここでまた会えるようにと願ったのは。それは、確かにみんなの願いだった。
そうだ、きっと願いはかなったんだ。僕は、僕であって僕じゃない。僕も、君も、みんながここにいるんだ。ここにみんなの願いがあって、そして僕は立っている。
もう少しすればまた春がくる。そうしたらきっともうひとりの君やもうひとりの僕たちがあの頃と同じようにこの丘を登ってやってくるだろう。あの、懐かしい歌と、春の陽ざしのような笑顔を連れて。
僕は、いつでもここで待っています。
あとがき
97年1月の作品です。
まだこういった文章を書きはじめる前から表現したいと思っていたものがあって、それをこの長さで話にしてみようと思って書いたもの。ペンネームももともとこのあたりから来てます。