う た た ね こ や
〜 谷山浩子と本のあるところ 〜 

サイト内検索 help

少女3部作 ― I
 泣いているのは少女だろうか。
 最初は気のせいだろうと思った。こんな叩きつけるような音のする雨の中では少女の弱々しい泣き声などが聞こえるわけがない。しかしそんな私の思いとは裏腹に泣き声はだんだんはっきり聞こえるようになってきているような気がする。その泣き声はひたすら何かに助けを呼んでいるようにも聞こえ、それとは逆にすべてを拒んでいるようにも聞こえていた。もしかすると私は記憶だけではなくて耳もおかしくなってしまったのか。
 たまたま雨と夜をしのぐ為にころがりこんだ、持ち主にも捨てられてしまったかのようなこの古い屋敷について知っていることがあるわけもない。もっとも、子供の頃記憶喪失になって以来、自分の名前も何もかも思い出すことができずにいる私が自分の記憶の事について確かなことなど何も言えるわけはないのだけれど。
 そんなことを私が考えている間にも雨の激しさは止まることを知らず、雷は夜の闇と静寂の中をその光と音の間隔をだんだんと狭めながら近づいてきていた。
 昔の記憶はないけれど、たぶん私は子供の頃このように泣いてばかりいる女の子が嫌いだったのではないか。そんなふうに思うのは今でもなるべくからっとした明るい女性としかつきあわないようにしているからなのだが。
 突然、雷鳴というよりは爆発音に近いような音を立てて雷が落ちた。……すぐ近くなのではないか? そんな恐れが私を襲った。しかしだからといってどうすることもできずに部屋の中で私は座リ続けていた。
 少女の泣き声はまだしている。いったいどこから聞こえてくるのか? 彼女はいったい何者なのか?
 しかし私はこの電気も通じていない屋敷の中でその少女を探し回る気にはとてもなれなかった。少女はいったい何を呼んでいて、そして何を拒んでいるというのか。
ふと私は立ち上がって窓の外を見た。
 明るい――。もちろん朝日ではなかった。まだそんな時間ではない。
「屋敷が燃えている!」
 私がいるのと反対側の棟。さっきの雷はこの屋敷に落ちていたのだ!
逃げなくてはならない。そう、一刻も早く少ない荷物をまとめて屋敷を出ようとした。
 ……泣き声がする。私は怯えていた。「気のせいだ、気のせいだ」と言い聞かせようとした。何を恐がっているのだろう? 初めからこんな屋敷に人が住んでいるわけがないのに、そう理性では考えていた。しかし、この声を振り切ってここを出ていってはいけないのではないかという思いはやはり捨てられそうになかった。私は意を決して自分の荷物を屋敷の外へ向けて放り投げ、声の少女を探し始めた。
 いくつの部屋の扉を開いただろう。しかしどの部屋にも少女の姿どころか猫の子一匹いなかった。やはり誰もいるはずがないのではないのか。いやそんなことはない。声は聞こえているのだ。それはだんだんはっきりと聞こえてくるようになっている。どこかで聞いたような懐かしい声でもあるけれどそれが何の、誰の声なのか思い出したくはないような気もしている。いったい何なのだろう。私の失った記憶と何か関係があるのか。思い出さなければいけない大事なことがあるのではないだろうか。泣きたいのはこっちだと思った。
 熱い。体中から汗が落ちていくのがわかる。熱いのは火が迫っているから?それとも私自身の焦りの為だろうか。なんだか眩暈もしていた。
 ここだ。ある部屋の前に立った時そう思った。少女の泣き声はこの部屋の中から聞こえて来るのだ。間違いない。ノブを回した。……開かない。押しても引いてもその扉は動かなかった。私は扉を強く叩いて叫んだ。
「聞こえる? あなた!」
 そして火事が迫っていることを素早く告げた。
「わたしは、あなた……なんていう名前じゃない。わたしの名前は……何?」
 こんな時に何を言っているのだろう。この子は。
「あなたの名前なんかどうでもいい。とにかく扉を開けて!」
「わたしの名前は……? わたしの名前は何? 思い出して。ねえ……あなた」
 私は仕方なく扉に体当たりし始めた。――しかし、少女は今なんといったのだろう。「思い出して」と言ったのではなかっただろうか。私が彼女の事を知っているのか? すると彼女も私の事を知っているのか? ……頭が割れるように痛い。
「あなたはいったい誰?」
「ねえ、あなたの名前は……、あなたの名前は何? ……思い出して」
 何度か体当たりしてみたけれどだめだった。体がふらふらしているせいもしれない。いけない。もう頭の痛みを抑えることができない。
「あなたは誰!?」
 最後の問いは私と少女のどちらが発したものだったろう? しかしその瞬間に私は自分がひとつの名前を叫んでいるのを聞いていた。いや、あるいはそれは少女の答えだったのかもしれない。いずれにせよその声は激しい雷鳴の中でかき消されてしまっていた。
 とうとう扉が開いた。しかし、そこには誰もいなかった。ただ私が少女だった頃、自分の泣き顔を見ることに耐えられずに壊した手鏡がたった一つ置いてあるだけだった。

あとがき
 96年5月の作品。
 初投稿作品、というか生まれて初めて書いたお話です。この話だけは投稿した時のを少しだけ直してあります。本当は大幅に直したかったのですが、そうすると違う話になってしまうかもしれないので(^〜^;) でも、この話は書いた本人にもよくわからない……。