う た た ね こ や
〜 谷山浩子と本のあるところ 〜 

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誕生
 私は…ひとり…。
 私がいるところがどこなのか、そして自分がいったい誰なのかもわからない。
 それは言葉というものを知らないからなのだろうと思う。私の名前をあらわす言葉もここがどこなのかをあらわす言葉も私は知らない。表現することができないものはもともと存在しないようなものなのかもしれないと思う。
 きっと、誰にも何も伝えられない私の言葉はほんとうの言葉ではない。そして誰かと想いを交わすための言葉を持たず、それどころか自分自身のことを表現することさえできない私は、まだ生まれているとはいえないのだと思う。
 誰か、私に言葉をおしえてください。ほんとうの言葉というものを。
 そう思っても、この言葉さえ誰にも届かないのだろう。ほんとうの言葉を知ることができれば、その言葉で誰かに何かを伝えることができたのなら、その時は私も生まれることができているのではないか。そんなふうに私はずっと思ってきた。
 でも、何者でもない私、どこでもないここをあらわす言葉なんてきっとここにはないのだ。もしかするとそれはどこかで私に見つけられる時をずっと待ちつづけているのだろうか。わからない。
 私はどこでそれを見つければいいのだろう?
 …無駄なことはわかってる。誰も私の声なんて聞いてはくれない。私の言葉は届かない。私には何もできはしないのだ。もうあきらめてしまおう。きっとそれがいい。そうだ、私は黙ってしまおう…。
 そして――沈黙した。そう、たった今、ひとつの声が聞こえなくなるのが私にはわかったような気がする。そして、その後にはもう本当に何もない静寂だけがある…、それだけのはずだった。
 いや、違う…。何が…違うのだろう? そう…私は、私は今も黙ってなどいないではないか。そうだ、しかしそれなら沈黙したものは何だったのだろう? 今、確かに何かの声が聞こえなくなったのだ…。
 ――私でない誰か? …そうなのだろうか。
 ここに私ではない誰かがいて、何かを私に話しかけていたのだろうか。ただその言葉が私にわからなかっただけなのだろうか。もし、もしそうなら、その声が聞きたい。あなたのことが知りたい。
 だけど、私のその言葉にもやはり答えはなかった。
 いま黙った声は本当は私自身なのではないだろうか、そう思った。でも、きっとそうではない。その声が沈黙した瞬間にも私は黙ってはいられなかったのだから。
 その声はもう私に何も聞かせてはくれはしない。それが誰なのかも、どこかに行ってしまったのかどうかも。ずっと一緒にいたのに一度もあなたの声を聞くことができなかった。ああ、私はほんとうに独りになってしまったのだ。
 私は、自分の中のずっと奥のほうから湧き上がってくるものを感じていた。何かが私の中から生まれてくるような…。
 生まれる? この私の中からいったい何が生まれるというのだろうか? 怖い。すべてが変わってしまうのではないか。そんな恐怖が私をとらえていた。でも、そんな恐怖を振り払うようにして私は何かを叫んでいた。それは私を、そして世界をふるわせていた。この世界のすべてと共鳴をおこし、私の耳へも響いていた。
「愛してる」
 そう、それが私の初めて聞いた、私自身の言葉だった。
 その言葉は私自身だった。たったひとつの言葉の持つ数えきれない想いが、いくつもの色を集めた光のようになってこの世界の闇を照らしだしていた。
 私は泣いていた。私の流した涙が雨となっていた。それが光に照らされてきらめきながら降りそそいだところには海ができていた。ひょっとすると私は今までずっと泣いていたのかもしれない。海はそのぐらい広く、深いものだった。その海もまたふるえていた。
 ふるえる海の中には魚がいた。魚はだんだん獣へと姿を変えながら大地を歩き始め、さらに姿を変えてやがて人になっていった。
 世界は、私はふるえていた。そして泣いていた。風が、樹が、そして石がふるえていた。夜も、夢も、そして星も泣いていた。数えきれないものがそこにあった。
 人はそれを感じていた。同じようにふるえ、泣くことができた。そして人は言葉を知っていた。私の言葉だった。それによって私を知っていた。そう、人は私とともにいた。いつしか私をその中に宿していた。私の言葉を宿していた。そして世界を宿していた。そう…そして…。
 ふるえながら、泣きながら、いま、私は生まれた。

あとがき
 96年9月の作品。  浩子さんの「誕生」という曲のイメージで書いたもの。「誕生」はとても好きな曲で、101人コンサートでリクエストしたこともあります。自分ではこういう話が好きで、もっと書きたいと思ってます。ラジオドラマに応募するためのものとしてはアレだったんですが(^〜^;)